夢窓疎石−立原正秋の「日本の庭」を読んで

 

「日本の庭」(立原正秋)を読んだ。
 

読んで、私の心に強く響いたのは立原の<夢窓疎石>についての項と、<龍安寺の庭>についての項である。
それはあまりに私の琴線に触れるものであったから、この書を以前に読んだことがあるような既視感に捉われたほどであった。
しかし76年(昭和51年)の1月から10月まで「芸術新潮」に連載され、77年4月に刊行された本書を過去に読んだはずはなかった。
 

夢窓疎石は全国に数多くの庭を、中でも京都・西芳寺、天龍寺の作庭を残した高僧 ・作庭家として名高い。
疎石の足取りを辿ってみよう。
1275年伊勢に生れる。4才一家甲斐へ。18才東大寺にて受戒(密教系)。20才禅門に志し建仁寺に参じる。夢窓疎石を名乗る。21才鎌倉東勝寺、建長寺で修行。22才円覚寺で修行。23才京都建仁寺へ。25才鎌倉建長寺へ。26才那須雲巌寺。28才円覚寺へ。29-30才陸奥、常陸に庵を結ぶ。31才甲斐に浄居寺を開く。33才雲巌寺。35才甲斐に戻る。39才美濃に虎渓山永保寺を開く。43才上洛し洛北に寓居。44才土佐に吸江庵を結ぶ。45才三浦に泊船庵を建て閑居。48才上総に退耕庵を建て閑居。51才京都南禅寺に入寺。53才鎌倉浄智寺に入寺。瑞泉寺を開く。55才円覚寺へ。56才甲斐に帰郷恵林寺を開く。59才鎌倉幕府滅亡。後醍醐帝隠岐から脱出。後醍醐帝に請われ上洛、臨川寺開山となる。60才南禅寺に再住。後醍醐帝より国師号を賜る。62才南禅寺を退き臨川寺に戻る。南北朝対立始まる。65才西芳寺中興開山となる。後醍醐帝崩御。67才暦応寺(のちの天龍寺)住持となる。68才「夢中問答」発刊。77才死去。
 

どうであろうかこの遍歴は。
時はまさに鎌倉幕府滅亡、南北朝対立、室町幕府成立の天下動乱の時代であった。
疎石の前半生には権力から離れよう、逃げようの姿勢がうかがわれるが、禅僧として名声が上がるとともに政治の中枢に取り込まれていく。
 

立原は書く。
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どこから書き始めようか。
-略-
疎石の<夢中問答>がなったのは疎石68才のことであった。彼はその数年前に天龍寺を開山している。この文章には建武中興を境にしての彼の苦衷が読み取れる。かっては後醍醐帝の厚い帰依を受け、やがて足利尊氏に追い詰められた帝が吉野で生涯を閉じると、今度は尊氏が帝を弔うために天龍寺を開山し、疎石は尊氏兄弟と手を結ぶ。疎石が苦衷なくして天龍寺開山に座ったとは思えない。

当時の仏教教団はどうであったか。前にも述べたように秀れた僧が数多く出た時代であった。浄土門あり、曹洞門あり、日蓮門あり、同じ臨済門に大燈あり、といった状況であった。
かって叡山が権力と結びついたように疎石もまた時の権力と手を組まねばならなかった。

そこには理想と現実との相克があった。後生の思想家が疎石をよしとしないのはこの点である。

しかしやがて五山文化が確立され、それにつれて数々の中世文化が花ひらき、世阿弥が能を大成し、珠光にはじまり宗易によって完成される侘茶がうまれるのは、屈折の多かった一人の禅僧疎石と権力との結びつきがあったからに他ならない。
-略-
たしかに道元という不世出の禅僧がいた。彼は、禅僧が詩文と造型芸術に足を踏み入れるのを厳に戒めた。したがって五山時代を転落だとみるものもいる。しかし五山時代なくして中世文化が生れなかったことを思えば、詩文をよくし、その生涯に振幅のはげしかったひとりの禅僧もまた一方の星であった、と看做さねばならない。
-略-
ところで「山水をこのむは、定めて悪事ともいふべからず。定めて善事とももうしがたし」という言葉は、足利兄弟と結びついた禅僧としての自己弁護ともきこえるし、自己を突き放した言葉にも受け取れる。これは時勢に応じた政治的な言葉である。かっては鎌倉幕府から逃れて名利を求めなかった山居生活者が、何故このようになったのか、とも思う。
しかし「山水には得失なし、得失は人の心にあり」という言葉はやはり胸を打つ。ここには禅僧として道元のように一直線に歩めなかった者の苦い反省がこめられている。
もう昔日のように、各地に庵を結ぶ身分にはなれない、とすれば、作った庭に思いを鎮めることで救われていた、とみるべきだろう。
今日、疎石作と断定できる庭はひとつもない。すべては伝疎石作である。それでよいのだと思う。

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2006・7記


先に「夢窓疎石―日本庭園を極めた禅僧」(枡野俊明 NHKブックス)を読んだ。
私は枡野の記述を全面的には受け入れられず、そのことを書いた。
http://pcc-gardendesign.cocolog-nifty.com/weblog/2005/08/post_1c99.html

http://pcc-gardendesign.cocolog-nifty.com/weblog/2007/02/post_a154.html