立原正秋の「龍安寺」論

「日本の庭」(立原正秋 初刊1977・2 新潮文庫1984・2)を読んだ。

(前略)

龍安寺の石庭について、立原正秋は禅との相関性を否定する。実際に庭を手がけたのは山水河原者と呼ばれる職人たちであり、龍安寺の庭が美しいとしたら、それは石の1点の位置を決めた職人の美意識だという。
曹洞宗の庭、浄土宗の庭にも枯山水はあるではないか。

立原は龍安寺の庭についてこのように精神性を言い出したのは、大正13年志賀直哉が発表した一文「龍安寺の庭」以来だという。そしてその全文を引用する。
ここへの 全文引用は省略するが、志賀への批判は厳しい。

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志賀の一文が出るまで、枯山水と禅を結びつけた論はなかった。それまで日本人にとって庭は「風流」の対象であった。風流は荒びである。志賀以後の多くの論者は、志賀の恣意的な趣味判断を鵜呑みにして、そこから自分に都合のよい骨組みをつくりあげ、それに整合するように論を展開したにすぎない。すべて空論であった。
志賀が龍安寺の庭について書いた文章を、一種の純粋直感とみてもよいが、しかし経験的直感の基礎にはなり得ない内容である。私が志賀の美意識に限界を見るのはこの点である。
-略-
その趣味判断は感情判断にすぎず、瞭らかに観の感覚の不完全を視ることができる。志賀以後じつにたくさんの人達が枯山水と禅の相関関係について書いているが、それらはすべて概念のない主観的普遍性と必然性を論じてきたにすぎない。
志賀の「龍安寺の庭」は、関心のない快感性によって表出された内容である。なんの苦悩もない人間が通りすがりに見た庭である。言いかえると、他人の荒びがそう簡単に見えること自体がおかしいのである。志賀に見えたのは自分だけであった。「暗夜行路」の中で主人公が娼婦の乳をまさぐり、豊年だ、という箇所があるが、あれと同じである。これは量の問題になるが、狭い志賀の視線は無責任である。

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立原はまた久松真一(京大教授)の名著とされる「禅と美術」にかみ付く。

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つまり久松氏は「禅のもつ七つの性格」を設定し、それに整合するように庭を解釈しているわけである。この放胆な空論は志賀とは別の意味で無責任である。何故こんな通俗的な長い文章を引用したかというと、今日、殆どの人が志賀、久松氏のように枯山水をみており、知的ミーハー族、女の子、禅に興味を抱いている外国人、殊にアメリカ人あたりに恰好の説明文になっているからである。スーベニアショップ向けの内容である。
久松氏は疎石が庭を造ったと断定して「そこに禅的なもの」「禅の表現」をみているが、曖昧である。こうした論は自分だけが見えた志賀の一文よりたちが悪い。龍安寺の庭の石に「犯しがたい威厳」があるとか、苔が「幽玄という点で非常に大事な役割を演じている」とか、「誤魔化しがないだけに、見ることが難しい」とか断じている。単なる造形物にこんなに空疎な言葉をあたえてどうしようというのか。

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ほとんど立原の文章の紹介ばかりとなったが、「日本の庭」はまさに私の気持ちを代弁してくれる評論であった。

韓国人として疎外された境遇に育った立原が、あえて日本の伝統文化の中枢ともいえる「龍安寺」の庭に迫った気迫がひしひしと伝わってくる。彼がこの一文を書くにあたりどれほどの覚悟を必要としたか、思うだに感動を覚える。


最後に立原正秋の略歴を載せておく。

〜〜〜〜〜〜日外アソシエーツWHOPLUS〜〜〜〜〜〜
両親は韓国人で、生まれた時の名前は金胤奎。5歳の時に天燈山鳳停寺の僧侶だった父を失う。
9歳の時に母が妹たちを連れて日本に渡り、叔父に預けられるが、叔父も済州島の病院に赴任したため、11歳の時に母の再婚先に引き取られるまで孤独な日々を過ごす。この幼少時の経験が後年、自伝的小説「冬のかたみに」に結実。
横須賀商在学中から文学に関心を持ち、昭和21年早大文学部国文科聴講生となり、谷崎精二教授主宰の創作研究会が応募した懸賞小説で一等に入選。
22年結婚、日本国籍を取得。薬品会社のサラリーマンや夜間警備員などを務める傍ら小説を執筆し、26年同人誌「文学者」に発表した短編「晩夏」で初めて立原正秋の筆名を用いた。
31年本多秋五の知遇を得、その推挽により「近代文学」に「セールスマン津田順一」が掲載され、以後同誌などに作品を発表。芥川賞候補2回、直木賞候補1回を経て、41年「白い罌粟」で第55回直木賞を受賞。
以後は純文学とエンタテインメントを書き分ける流行作家として矢継ぎ早に新作を発表、「情炎」「薪能」「舞いの家」「剣と花」「冬の旅」「花のいのち」「残りの雪」など数多くの作品が映画化、ドラマ化された。この間、39年「近代文学」終刊に伴い新同人誌「犀」が創刊されると世話人に、44年には第7次「早稲田文学」編集長に就任して編集に尽力、岡松和夫、加賀乙彦、高井有一ら多くの小説家を輩出した。
55年亡くなる前に筆名の立原正秋を本名とした。
日本の美と伝統に惹かれ、世阿弥が著した「花伝書」の精神に大きな影響を受け、独自の文学世界を生みだした。能に親しんだ他、美食家、喧嘩の達人としても知られた。他の著書に「剣ケ崎」「漆の花」「鎌倉夫人」「辻が花」「あだし野」「きぬた」「幼年時代」「夢は枯野を」「その年の冬」などの他、「立原正秋全集」(全25巻,角川書店)がある。
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2006・7記